ナニワ商人の知恵と習慣

商売人と言われる大阪人のDNAに宿る「ナニワ商人(あきんど)」の知恵と習慣

阿呆二阿呆トイウ阿呆(2/3)

この強さ、したたかさでなにを守ろうとしたか。事業である。財である。つまりは家である。事業が完成した時には誰しもこれを永続させようと腐心するのは当然である。そして、商家が企業体よりも、家長中心主義の親族の構成による「家」と昔はみたわけで、ここに家憲、家訓といったものが発生した。

はじめ、家憲、家訓は功成った武将の一族の倫理の規則として成立をみる。戦国期から近世初頭にかけては、もっぱら武士階級のものだったが、商人が財を持つと武士と同じように子孫繁栄に夢を託すことになった。武士が落目になると商人がその方法論をすぐさま自分たちのものにしはじめたといえる。

家憲、家訓のある家は、商人の中でも上位にいるという誇りを持ちはじめた。と同時に、金を持った親の目には、わが子が頼りない存在に映った結果ともいえる。その証拠は「笑記」などにも次のような表現で登場する。

-惣して考みるに、親より其子万事におとり、其孫をろかに、親にまされるはまれなり。と、ある。金を握った親たちは、この子供や孫はきっと自分が苦心の挙句に築き上げた財産を食い潰してしまうに違いないと思って接していたのである。

親は子供や孫を信用していなかったということになる。そこで、家訓でこれを厳しく規制しようとしたのである。これら商人は文筆の素養がなく、漢詩などにも明るくなかったので、なにかいいテキストはないかと探し求めたものだ。慶長期の頃の町人の倫理観を伝えた木として、島井宗室の遺言状とか本阿弥光悦行状記を手にして、一族のモラルはどうあるべきかなどと研究したのだが、これが難し過ぎるとあって、もっと平易なテキストを印刷しようという気運が板元(出版社)の知恵者の間で考えられた。

表面は、現代ふうにいうとI明るい家づくりのハウーツーといったものだが、その奥に隠されているのは、如何に財産を守り抜けばいいかというものである。その木は「家道訓」というそのものズバリのものもあれば、少しヒネリをきかせた「明君家訓」なる書もある。豪華木もあれば普及版も現れた。

これもまた時代によって倫理観が異なっている。元禄時代が第一期で、次は享保の改革をうけての第二期、心学の流行した宝暦期の第三期となる。