ナニワ商人の知恵と習慣

商売人と言われる大阪人のDNAに宿る「ナニワ商人(あきんど)」の知恵と習慣

あきんどは「さんずの川」をわたるな(3-3)

商人にとって(時間)とは桑(くわ)の葉のようなものだ。一匹の蚕(かいこ)になって、時間という名の桑(くわ)の葉をしっかりと食べつづけていかなくては、時代に置き去られる危険があるという考えが根強く残っているわけである。一日に食べる量が減少したなら、商人はたちまちにして貧しい者になっていくということであり、一度貧(ひん)の境地に陥(おち)込んだが最後、もうどう足掻(あが)いても富の区域には這い上ることが出来ないという。

-ヒンすりやドンする。

という言葉が生れたのも、この事情による。このドンは鈍ではない。貪である。ムサボルミジメサを意味しているわけだ。貧の下には貪が待ち受けているぞという諌めである。

人間、なにが惨めかというと、生きていくために恥も外聞もなく貪るようにして金を稼ごうとする姿である。そして、印鑑せずは、間違っても連帯保証人になってはいけないということである。

印鑑は主に実印のことだが、実印を捺(お)すと、大阪人はタイコバンという。これを太鼓判というふうに誤解している人が多いけれども、正確にいうと、これは太閤判である。豊臣秀吉の判ということであり、これを捺(お)すことによって、すべては決定されるという意味である。もう後に引き退ることは許されない。すべての責任を自分が被らなくてはいけないのだ。だから、如何に友人であり、知人であり、あるいは身内であったとしても、いたずらに軽い気持で保証人になったりしてはいけないという。

ひとつの判を捺(お)したばかりに、全財産を失ってしまうということもあれば、死に追いやられてしまうということもあると、近松(門左衛門)、西鶴の両先生も作品の中でいっておられるわけだ。こういうふうに、商家に発生した家訓は次第にわかり易いかたちとなって、商人一般の心得というふうになっていくわけである。

この点が江戸と違う。江戸ならタテ軸の伝わり方をするのが家訓だが、上方の場合はよりポピュラーなかたちになって、山の裾野の方にとゆっくり広がっていくことになる。もはや、家訓は一軒の家の申し伝えではなくて、商人全般の日常の知恵といったものに転じていく。

このあたりが、庶民文化といえるところだろうか。江戸の武家社会では、他家の家訓を自家の家訓にするなどということは恥そのものであったに違いないが、上方ではいいものはお互いに分配しましょうとでもいえそうなかたちで各家に深く浸透していくのである。そして、家訓から発した諺(ことわざ)などは、永久の生命を帯びることになる。