ナニワ商人の知恵と習慣

商売人と言われる大阪人のDNAに宿る「ナニワ商人(あきんど)」の知恵と習慣

小判は利発なもの(2-5)

従って、商人として目のきく経営者は息子の度量才量を冷静に見抜いた上で、これを切り捨てて、他人の才覚を評価する。つまり、養子として登用し資産の倍増を目論むわけだ。この具体例を井原西鶴先生は、「日本永代蔵」の中の、「見立て養子が利発」という一章で示されておられる。

ここに一軒の銭見世があった。銭見世は銭両替ともいって、一般庶民を相手にしての金貸しである。高額の金貨や銀貨を銭に両替えして、その手数料(切賃)をとって儲けとする店(見世)であった。両替商としては最末端であり、幕府公許の本両替商の監督下にある小規模両替商である。

こういった小さな店の主人は、なんといっても倹約第一主義をモットーにしながら商売の安定を計らなければならない。が、こういう小店でも、月の十日、二十日の夷講には商売を休んで、祝膳を囲まなければいけない。これをしなければ、商人として名折れになる。大阪よりも江戸の方がこの制度は厳しかった。

ところが初冬の夷講の日は、商人たちにとって一番頭の痛い季節であった。そのわけは、海が荒れて、生物の量が少ない。当然のことに魚は高値を呼ぶことになる。一尺二、三寸の祝膳の主役の中ぶりの鯛で一両二分もする。現在の額でいうと十四、五万円だ。一尺以下の鯛では見ばえがしない。如何にも主人のケチくささが見抜かれる。

だから、この銭見世の主人も無理をして一両二分の鯛を買った。その鯛を囲んで祝膳の周囲に店の従業員が居並んだ。その従業員の中に伊勢山田から十年契約で雇った十四歳の丁稚がいたのだが、さすがに伊勢商人の血を継いだ少年だけあって、割を手にする前に十露盤(算盤)をはじきはじめた。

「お前は、一体なにを勘定しているのか」と訊くと、「へえ、この目の前にある鯛は十一切れになっておりまっさかいに、現在(いま)の相場の小判一両銀五十八匁五分で計算してみると、なんと一切れが七匁九分八厘になるのでおます。ということは、まるで銀を噛むようなもんやおませんか」というのであった。