ナニワ商人の知恵と習慣

商売人と言われる大阪人のDNAに宿る「ナニワ商人(あきんど)」の知恵と習慣

裏金は「お悪」(3-3)

お悪はごく一部の利潤のために動くものだから、たちまち悪事が露見した場合にはストップしてしまう。これは昔も今も同じことである。が、こういった時代にこそ新機軸の金の運用が新しい方法で儲けの糸口になるものだ。

時代の間隙を縫うというやつだ。世間では抜け目のない奴などとやや冷笑気味にいうが、なに、これは負け犬の遠吠えである。こういう時代の「穴」を見抜くことこそが商人の才覚ということになる。三井九郎右衛門という男が、まさにその才覚の男といえる。

この商人は手持ちの資金で江戸は日本橋駿河町に店を構えた。あくまでも借入金でないところが、この男の意地といえる。店は間口九間に奥行四十間という大きなものだ。資本をポーンと出しての大型スーパーの開店という感じがする。

四十人余りの手代を配した。四十人を上方から派遣したのは相当な決断であるといえる。ここで、もうひとつ経営方針に新機軸を編み出した。「現銀売りに掛値なし。」とした。すべて「現金商い」に徹するという商売である。大名を一切相手にしないという布告を放ったことになる。手代の職場配置も徹底した。

  • 金欄の類に一人
  • 日野絹、郡内絹に一人
  • 羽二重に一人
  • 紗綾の類に一人
  • 紅絹の類に一人
  • 麻袴の類に一人
  • 毛織物類に一人

七種類の売場に責任者(有能な手代)を一人ずつ配した。金を運用するには、この配慮こそが大事なのである。どの売場でもエキスパート(専門職)を一人置かなくては客が安心しない。この客の心理を九郎右衛門は見事にキャッチしたといえ、ここまでは、金の運用と従業員の運用とを同時に考えてのアイデアである。

次に、九郎右衛門は金の運用と商品の運用を同時に考えた。「お客はどういうものを欲しがっているか」ということを考えたわけである。

その結果、びろうどとか緞子とか緋襦子という高価な品物を客の欲しがる寸法で売ることにした。それまでは、ある程度の中でしか大名に売っていなかったものを庶民階級の欲しがる寸法で売ってみようと考えたわけだ。

金を品物に置き替えてのこの運用の知恵はたいしたものといえる。びろうど一寸四方。緞子は毛抜の袋に仕上る程度。緋襦子は槍印になる程度の長さ。龍門の袖覆輪(袖の縁)片方ずつでも。こういった小さな寸法で切り売りしようという宣伝をした。

大衆がなにを好むかを九郎右衛門は冷静に眺めていたことになる。金の運用には、この世間(大衆)の俯瞰がどれだけ大切かということになる。この当時、世の中には浪人(失業者)が多かった。腕に自信があっても雇われ口がない人たちである。主に武士である。九郎右衛門は、こういう社会情勢に対して敏感であったといえる。

こういった失業者が急に任官の口(勤め先)が定まって、御目見得(面識)をするような場合には、礼服の熨斗目等が必要になる。こういった場合には、九郎右衛門は、雇っている職人を総動員させて、スピード仕上げをするようにした。

金を運用する場合、庶民の懐勘定を先ず嗅ぎつけ、庶民が決して損をしないような商品を売り出さなくてはいけないと九郎右衛門は後世に教えを垂れているわけである。彼は、こういうふうに目の前の状況判断を綿密にしながら、着実に金の運用を企り、一日に平均して百五十両也の売り上げをしたと記録に残っている。

月にして四千五百両の売り上げである。人件費、仕入費を差し引いても、千五百両の儲けが九郎右衛門の手に入ることになる。大名にぺこぺこしながら、損をしていくことを思えば、この庶民相手の知恵の発揮は見事という他はない。

この「日本永代蔵」に三井九郎右衛門と紹介されているモデルこそが、現在の三井グループの祖である三井八郎右衛門高利である。彼の資産運用は、さらに緻密に発展する。