ナニワ商人の知恵と習慣

商売人と言われる大阪人のDNAに宿る「ナニワ商人(あきんど)」の知恵と習慣

三井八郎右衛門高利の成功譚(1-3)

江戸においての三井八郎右衛門高利の成功に至る工夫は、その資本(金)を運用するに当って、次の工夫をした点にあるといえる。先ず、一種類の商品に、その商品専任の店員を配したこと。これは現代でも金の運用に際しては十分に注意しなければいけない点である。

一種類の品を複数の同僚と一緒に販売する場合は、その責任の所在がわからなくなる時が多い。商品に責任を持たない店員が生れてくる。これでは販売成績が落ちてくる。自分が1人で責任を負ってやり抜くという気概(迫力)が喪失してしまうのである。

1人でなら、なんとか売ろうという気概が生じてくるが、複数だと弱まってしまって、客が購買意欲を失ってしまう。この迫力は、どの業種にも同じことがいえる。買手は、迫力のない売手から品物を手に入れようとは決して思わないものである。

ここに第一の三井八郎右衛門高利の才覚が光るのである。第二番目に、掛値なしの販売を明確にした点に才覚が窺える。正札商法の確立である。これは現在の百貨店商法である。スーパー商法といってもいいだろう。

店名は越後屋呉服店、時に天和(てんな)三年(1683)である。百貨店商法はすでに三百年前に産声をあげ、三百余年の歴史を歩んで現在の三越デパートになった。この三百余年の間に、文化は大きく変化し、戦争は日本を幾度も危機にさらし、人間の生活は大変革の渦の中に巻き込まれたものの、百貨店商法はスーパー進出に押されながらも健在である。

この思い切った商法は当時としては目を瞳る商法であったが、高利は単なる思い付きから行ったわけではない。新商法誕生までに10年間の思考の歳月を要しているのである。延宝(えんぽ)元年(1673)に上方から乗り込んで来たのだが、江戸進出が一歩遅れたために、越後屋の名は既成商法に食い込むことが出来なかった。御用商人達の壁は厚かったわけである。

高利は慌てず冷静に世の中の揺れ動くのを観察していた。手持ちの金を袖の下として用いるのは決して得策ではないと判断を下したわけである。商人が大名という権力者にへつらっている様子は、庶民たちも知っていたから、いずれは御用商人が落日の憂き目を見るだろうと高利は睨んでいた。

この思惑は、大名の方が専属制度を廃止し、入札制度を採用するという新しい商取引措置法が定められるに及んで、御用商人の築き上げた地盤が崩れはじめた。と同時に、大名の各家の経済事情はかなりの困窮に傾きはじめ、御用商人たちは掛売り代金の集金に東奔西走しはじめた。こげつきが相次いで店は倒産寸前まで追い込まれた。御用商人達は大名になんの妙味も感じなくなってきたわけである。

特権階級と癒着するための金の運用は必ず敗北するといういい例である。これは現代でも全く同じことで、戦後の数々の疑獄事件を見てもよくわかる。なぜ、こんなことになるかといえば、所詮人間は互いに欲の皮の突っ張り合いなのである。