ナニワ商人の知恵と習慣

商売人と言われる大阪人のDNAに宿る「ナニワ商人(あきんど)」の知恵と習慣

三井八郎右衛門高利の成功譚(2-3)

商人は商人で利益を少しでも手に入れようとする。大名は大名で踏み倒しという手段で品物を只同然で手に入れようとする。この両者の間に入った者は、自分だけ手を拱いて儲けから外されるのが口惜しいから、せめて密告料でも稼いで鬱憤(うっぷん)ばらしをやりたいという欲求にかられる。三者三様、欲の皮の突っ張り合いを演じている間に上層部はガラガラと音をたてて崩れ落ちていくわけである。

こういう時にこそアイデアへ才覚)がものをいう。そのアイデアによる金の運用にしても、前もって小規模ながら試みていて、十分に成功率を確かめてから出発したのが三井八郎右衛門高利ということになる。彼は、江戸で新しい商法をはじめる前に、すでに大阪の心斎橋筋で現金掛値なしの商売をやっているのである。

が、大阪では決して成功したとはいえないのだ。かえって、大阪では失敗したといった方がいい。では、何故、大阪で失敗した商法をあえて江戸に持って行ったかという疑問が湧くが、ここに高利の冷静な人間観察をしての判断がある。

それはなにか。先ず、高利は大阪と江戸の都市経済の違いを分析してみた。大阪は問屋経済とでも呼べる地盤を有している。問屋商人が幅をきかせているわけである。だから、庶民は品物を安く手に入れようと思えば、知り合いのツテを頼って、問屋の番頭とか手代に取り付けば、格安で手に入ることになる。したがって、現金掛値なしの正札商法にソッポを向けることになる。

これに対して、江戸の町は違う。問屋経済が薄い。理由は大阪が商人都市(経済都市)であるのに対し、江戸は政治都市であり、町の人は大阪の場合は地元勢で構成されているために、買い手はツテからツテを頼って、安い買物をする知恵をつけているが、江戸の場合は各地から集って来た人によって構成されているから、ツテというものがない。

武士階級は商人風情にツテを求めることを快く思わなかったし、町人も小売り商人と職人が多かったから、ツテを求めようにも求められなかったのだろう。そして、なによりも虚栄心が強いから内緒でツテを探すというのに抵抗を覚えたに違いない。商人は大半が小粒であり、大阪のような問屋商人が少なかった点も高利に幸いしたわけである。

世間では、三井や鴻池のような俄商人(にわかしょうにん)のことを「出来商人」と呼んでいたものだ。が、俄商人といっても、その根は最低30年間過去に商売を維持していたというキャリアがなくてはいけなかったわけだから、最近のブームにのった俄成金とではわけが違うのである。

上方から30年間江戸に目を向けていた高利は、日本の国内において、江戸が一番の消費都市であると読んだところに三井財閥の因があるといえる。