ナニワ商人の知恵と習慣

商売人と言われる大阪人のDNAに宿る「ナニワ商人(あきんど)」の知恵と習慣

三井八郎右衛門高利の成功譚(3-3)

江戸で成功した高利の財は二代目の八郎右衛門高平に受け継がれることになる。一応の地盤を父が築いてくれ、その上に立った高平は、金の運用をどうすべきかと考える前に、世間の商人が何によって失敗したかというエピソードや資料を丹念に蒐(あつ)めまわったのである。ここが親子そろって普通(なみ)の商人ではないところだ。普通なら成功物語を参考文献とし、成功者にあやかろうと考えるところだが、高平は逆の方法をとったことになる。

特に「大名」という権力者の分析が面白い。権威、権力というものが商人にとっては一番の仇であると説いている。つまり、大名という人種は、商人(町人)が羽振りのいい時には、扶持米(ふちまい)を沢山与えてやって大名屋敷に縛り付けておくものだが、町人の身上(財産)が次第に少なくなっていくと、扶持米を少なくしたり、合力米(ごうりょくまい)も薄くしていくのである。町人は弱り目に巣り目、踏んだり蹴ったりの状況に置かれることになる。

 

だから、商人としての道を歩むためには、どんなことがあっても大名から扶持米(ふちまい)とか合力米(ごうりょくまい)を受けてはいけないと高平は子孫に伝えた。その「町人考見録」(享保13年・1728)は、大名、武士達のことを機略を巡らして勝手気優な種族だとまるで狂犬の如くに描いている。

 

武士は士農工商という四民の頭としての傲慢さを棄てない厄介(やっかい)極まる人間であり、役人もまた智謀兼備の権威風を吹かす人間だから、十分に警戒しい上手い話を彼等が持ち込んで来ても、決して心を許してはならず、金を彼等のために使ってはいけないと厳しく申し渡しているのである。

 

町人が竹槍を手にして武士の真剣に向ったところで絶対に勝つことは不可能であるといっている。そして、大名に金を貸すのは控えた方がよいとし、初めに計算を密にしてから1年間だけ金を大名に運用してもいいといっている。

 

この1年と区切った理由を分析してみれば、年々の大阪への廻米(かいまい)を引き当てにすれば、貸金の元利よりは少し余分の金が出て、その分は越後屋に預けてもらえるように見え、確かに1年目にはその通りにはなるが、2年目からは江戸藩邸の臨時支出も重なり、公役普請の入用がこれに加わって、次第に貸金の額が高くなってくるのだ。

 

これは、常に大名が用いる手段である。これでは、廻米(かいまい)があっても先口の貸方へ回ってしまって、後発隊はどうしても算用(帳尻)が合わなくなってしまうものなのだ。大名の言い分もわかっている。いつも次のようにいう。

 

「いやな、大阪へ回すべきところの米を国もとで売り払うて、その金を江戸へ直送し、どうもそちらに支払うことが不能になってしもうてな」

 

貸した上に取り戻そうとまた貸して結局は大名に持ち逃げ同然に吸い取られてしまうと高平は子孫に伝えているのである。

 

「大名貸は博突の如し」

 

と、上にも下にも迂閥に金を貸す、運用などしてはいけないと諌めている。初代が江戸に開店して90年経ってこの教えが明文化された点に、商人の粘り強さを見る。