商は笑なり(1-3)
-商は笑なり。
この言葉の源流を探ってみよう。そうすることで大阪人のルーツがやや明確になってきそうである。商=笑、これは大阪人が好んで使う語呂遊びである。だから、商は笑なりという言葉が生れてから後に、今度は、工は巧なりという語呂合せが生れた。工は巧みをもってよしとするという考えである。
この「商は笑なり」とは、商品を間にして商人と客(つまり売り手と買い手)の双方がにっこりと笑わないことには本当の意味での商売は成り立たないということである。このどちらかが笑えない状態になれば、それは商人道として認められないということになる。だから現物なしの金の証書(実は紙切れ)を間にした豊田商事の如きイカサマは商人道外の邪道なのである。
客を喜ばしてこそ商人は誇りを持つべきであって、客を泣かしては商人道ではないのである。三洋の欠陥ヒーターとて同じことである。安いコストで客に商品を提供することは、決して悪いことではないが、その商品が悪質なものであって、客を泣かせたり、殺したりすれば、これはもう論外で、商人の名鑑から1ランクも2ランクも落ちてしまうのである。
買った客の方が、「これは安い。これは便利だ」と喜んでこそ商人の誇りが保てるわけなのだ。単に薄利多売だけが大阪商人の専売特許だと思ってもらっては困るのだ。この思想は、あらゆる業種の商人にも行きわたっているのが大阪という土地なのだ。最近、大阪商法について、あるいは大阪現象と題しての単行本が何冊も出ていて、それらに目を通すと、
-大阪商法の根底にあるのは、昔からの薄利多売の精神である。
と書かれているが、これは大阪商法の表面にしか目を向けていない誤った断定といっておこう。なにもはじめから、値段を安くして売ったならば、量さえ多く売れば結局は儲かるではないかという発想が大阪人にあったわけではないのである。
私は、大阪商人の倅に生れて、周囲の店の商法をつぶさに見てきた。八百屋、饅頭屋、書店、酒屋、魚屋、仏壇屋、天婦羅屋、それに加えて、芸者置屋というのもあった。ちなみに私の父の生業は質屋である。
これら近所の店々を眺めていて、単なる薄利多売方式では儲からないという実感を持った。町角のバナナの叩き売り以外は、薄利多売に至る前の重要なプロセス(過程)を踏まえていたものだ。
この重要なプロセスというのは、先ず廉価ではなくて、先ず客に十分なる満足度を与えるか否かで決定するものだった。「あの店の饅頭は安くて旨い」という評判ではなくて、「あの店の饅頭は旨い。それに値段も安いで」ということがはじまりなのだ。その結果が、安くて旨い饅頭というキャッチフレーズを生むのである。安くて旨い前に、旨くて安いの過程が必要なのだといえる。