ナニワ商人の知恵と習慣

商売人と言われる大阪人のDNAに宿る「ナニワ商人(あきんど)」の知恵と習慣

スペッシャリストの衿特は「師」で表す(2-3)

そして、野士は野師となった。当時、何かを商う場合は、師という字を下に付けたものである。クグツ師といえば人形遣いだし、トギ師といえば砥屋であった。別に、その人が師匠というわけではないが、師というのは個人として技を自慢出来る職業人(男性にかぎる)という風潮があった。「おれは、こういうことが出来るのだ」というスペッシャリストの衿侍を師という字で表現したわけである。

トギ師は、あくまでも刀剣を砥ぐ人であり、包丁を砥ぐ人はトギ屋といったものだ。庶民階級の間でもこまかな階級差をつくっていたといえそうだ。さて、野師になった野士諸君は生活を維持していくために、如何にすべきかを考えた。農地に帰れる者はいいが、大半は故郷を後にした文無し野郎だから、これといった商売に従事するこ、とは、きわめて困難であったといえる。

この時代の失業率というのは、現代にくらべるとかなり高い。ましてや野武士にいたという下っ端のもぐり込める余地などは、まったくなかったといえる。人間、窮すれば知恵の湧く動物である。そして、通常、世間でいう知恵というのは、総じて悪知恵である。いい知恵というものは、あまりないというのが現世なのである。

彼等は、知恵を結集して、資本なしに、なにか稼ぐ方法はないものかと腐心したものである。その結果、彼等は仏具を取り扱うことを思いついた。すでに仏教はあまねく全国津々浦々に行きわたっていて、人々の信仰心はいやが上にも盛り上っていたので、人々の唯一の関心は、仏教に用いる仏具に傾いていた。物持の家、名主とか庄屋はことのほかに先祖を大切に祀るものであるから、こういう金持を相手にして、ひとつ言葉巧みに仏具を売って歩こうではないかと野師は野心に燃えたのだ。

仏具にも色々とあるが、彼等は位牌立てとかリンに目標を定めた。仏具を扱うところから香具師と書いてヤシと読ますことになった。一説によると、ヤシというのは人名であって、その昔、江戸の町で言葉巧みにイカサマロ上でニセモノを売った彌四郎(やしろう)という男がいたからだというのもあるが、これは出所が曖昧であり、やはり仏具(香具)を売るところから香具師と名付けたのが正しいだろう。